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鉾歩


(20)徳宿城
 常陸大掾(平氏)庶子の徳宿氏の居城である。大掾重幹の次男清幹が水戸石河地方治め、その子成幹が鹿島地方に土着し鹿島氏を名乗った。さらに、その子親幹が徳宿郷に入り徳宿氏を名乗り、次代の秀幹の代に安房氏・烟田氏・菅野谷氏の庶子が誕生している。史料から現在の鉾田及び旭地区を治めた徳宿氏の姿を追うと同族や江戸氏・武田氏との複雑な関係が見えてくる。
 徳宿城は、鉾田川支流の安房谷津に突き出た舌状台地に築かれたもので、親幹が築いた館であった一曲輪部分を改修するとともに、北側に連格式の形態で拡張し根小屋集落を形成している。よって、一曲輪の帯曲輪が発達し、一曲輪と二曲輪の堀が深い。二曲輪は土塁も含め開墾により隠滅しているが、三曲輪の存在をも示唆する形態を有している。本郷集落全体が城館機能を有し、城へと続く小路の造りにその面影を見ることができる。
 史料から徳宿氏の存在を確認すると、建武3年(1336)の「着到状」(『烟田文書』)で子息又二郎時幹とともに烟田姓を名乗った幹宗が、前年の建武2年(1335)9月の「軍忠状」(『烟田文書』)には、烟田氏が徳宿左近将監幹宗として徳宿姓を称しているが、それ以前の文書はすべて徳宿氏で表記されている。これ以降は、徳宿姓は無く烟田姓となっている。さらに、百年後の永享7年(1435)の『富有注文』には、徳宿郷に烟田の寿徳寺及び安房の鹿島氏家臣と言われる奴加賀大炊助の名しかなく、徳宿氏の存在は記されていない。
 文明18年(1486)の徳宿合戦で徳宿城に籠り江戸氏と戦ったのは、烟田氏から徳宿氏を継いだ三郎定幹とされる。この合戦は、江戸通雅と小田成治が小鶴原で戦い徳宿氏を頼り敗走する小田氏を追い一度は徳宿城を包囲しながら撤退したものの、再度江戸氏が徳宿城を攻撃したものであった。定幹以下重臣たちも討死した戦いの救援に間に合わなかった鹿島氏及び下総千葉氏一族の軍勢は、樅山において江戸氏と戦ったが破れ和睦し、鹿島地方に江戸氏の勢力が入る契機となってしまった。
 この時、徳宿氏は惣領家ではなくなり烟田氏の支族と化していたと考えられ、徳宿城も改修は重ねていたと思われるものの規模も大きくなく多勢の攻撃に耐えられるまでの堅固さはなかったと考えられる。
 周辺には、徳宿城主累代の墓所や合戦の場所となった流血久保などの伝承地もある。


いばらき市民活力センター
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