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鉾歩


(21)安祥寺と安房館
 鉾田市教育委員会説明板を含め徳宿氏の庶子として独立した又太郎俊幹の居館を三階城とする資料を散見するが、安房氏の記載が限られることから詳細に解明することができない現状にある。限られた記録を辿り安房氏ならびに安房氏の拠点を探ると安祥寺境内周辺がその居館であったことを説明できることになる。
 城館の形態としては、曲輪と合わせて土塁・堀による縄張りと城館主及び家臣団が居住する根小屋集落が一体として形成され、農耕と商工業職能集団がまちを創り上げることになる。安祥寺境内ならびに周辺地域は堀切や土塁・腰曲輪も確認でき、安祥寺へと続く小路も城館機能を有しており、安房氏の最初の拠点は安祥寺境内一体と考えたい。行方氏と小高氏、手賀氏と鳥名木氏との関係など隣接地での築城も珍しくない。
 まず、鹿島社大祭を担う大使役を記録した『安得虎子』及び『鹿島長暦』を見ると建武2年(1335)安房幹詮が務め、7年後の康永元年(1342)には幹詮が重なる鹿島宮崎幹詮の記録がある。永和3年(1377)には鹿島安房宮崎が務めた記録があり、徳宿氏の庶子で大谷川河口から涸沼南岸一帯を治めていた宮崎氏と安房氏の間で相続あるいは北の構えを強固にするための動きの中で安房氏が宮崎氏を名乗ることになった可能性が伺える。
 また、宮崎氏は応永23年(1416)に起きた鎌倉公方足利持氏と前関東管領上杉氏憲の戦い「上杉禅秀の乱」では、常陸地方では同族が弐派に分かれて戦った。鹿島庶子徳宿一続でも、鹿島・烟田氏は、持氏方につき、宮崎・菅野谷氏は敗れた禅秀方についたため滅亡したとされる。その領地はほとんどを烟田氏一族が後継することになったとされるが詳らかではない。その後もさらに常陸地方は永享の乱、結城合戦そして佐竹氏始め同族の内紛など戦乱が続くことになる(京では応仁の乱から戦国時代へ突入)。
宮崎(安房)氏が滅びた後の永享7年(1435)の『富有注文』には、安房郷に寿徳寺及び鹿島氏の家臣と言われる奴加賀大炊助の名があり、既に安房氏が中心的在地領主としての位置を失っていたことが分かる。さらに、永禄元年(1558)には、鹿島治時が安福治(江戸時代前期に安祥寺に改名及び臨済宗から曹洞宗へ改宗)へ「安福寺香田役用 五町五反十六歩、壱反半 観音お茶湯汲面、弐反 山王面」の寄進をしている(田山家文書、安祥寺寺伝碑文)。
安房氏と同じ徳宿氏の庶子である烟田氏関係記の『烟田旧記』の安房氏の記録であるが、享禄3年(1530)から慶長3年(1598)の期間での記録は全くない。

いばらき市民活力センター
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