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鉾歩


(23)鉾田館
 永禄9年(1566)に武田信通に敗れた鹿島治時は、同11年鉾田に出城として館を構え次男・三男を館主防備に据え、不仲であった同族庶子の烟田忠幹と相次いで交戦している。同12年3月には河崎戦い、烟田宿の戦いなどがあり同年7月まで抗争を繰り返すなど鉾田地方は不安定な状況に置かれていた。
 鹿島・烟田両氏の和睦後の天正9年(1580)に鉾田館主鹿島三郎が死去したため、鹿島氏は重臣で鉾田地方に所領を安堵され館を構えていた田山東市正を館主とした。同15年(1587)4月には烟田家臣の額賀・石崎氏に殺害され、翌月には鹿島七郎(貞信)が軍勢を鉾田に送り額賀等を破り鉾田館を取り戻した。
その田山氏の出自は、文治5年(1189)源頼朝に従い八田知家とともに陸奥藤原氏を攻めた大掾石河家幹の末裔で、応永20年(1413)に同族の鹿島氏に身を寄せ家臣となった一族である。享禄3年(1454)鹿島実幹は、確執のあった税所幹詮(もとのり)を鹿島大祭の任に当たるため鹿島社へ途上に家臣の田山教幹に殺害させた。その後両家に和睦が成立したことから、教幹は恩賞で鉾田に所領を与えられ長禄3年(1459)館を構えていた。現在、その名残としては「御城」の字名や鉾神社などがある。
 なお、鉾神社は鉾田館主となった田山東市正が小牧村(現:行方市)の鉾神社を天正4年(1575)に館の鎮守として勧請したものとするが、当時はまだ鹿島治幹の子たちが館主であったので矛盾がある。

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