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生きた学芸活動の展開 霞ヶ浦常民交流博物館
|麻生藩新庄氏外様小藩のすがた|新撰組水戸派へようこそ奈良大学で学んで行方を探ろう
麻生藩新庄氏外様小藩のすがた −激動の麻生藩幕末史−
 
 

 
 幕末には麻生藩を揺るがす事件が相次ぎました。当時外国船が頻繁に日本近海を航行し、水や燃料を補給する目的で寄港を迫ってきていました。嘉永6年(1853)には、遂にアメリカ合衆国の使節としてペリーが浦賀に来航したのでした。幕府はこの国書の翻訳文を添えて創設以来始めて諸国の大名に意見を求めたのでした。麻生藩は、この求めに鍋島肥前藩とともに和親通商を拒絶し断然打ち払うべしという開国拒絶論を示しました。当時の藩主直彪(なおとら)は、嘉永元年に鉄砲稽古場を築造し、嘉永4年には学問所の制度を整え、文武の教育に努めました。嘉永2年の幕府からの海防通達を受け、郷足軽の取立てや霞ヶ浦での水上訓練も実施しています。家臣たちも外国との戦闘意識を持ち、積極的な訓練に努めていたのでした。1万石の外様小藩でありながら異国船問題に対する危機意識が高かった背景には、水戸藩領に接していたため尊皇攘夷思想や活動に触れ、領主はじめ家臣や領民までもが深い認識を持つようになっていたともの考えられます。
  また、文久3年(1863)11月には、麻生周辺で尊王攘夷活動派を称する集団の事件が相次ぎました。「世直し」を唱えた真忠組が房総九十九里で騒動を起こし、鹿島根本寺には報国赤報隊が集結し同志が増えると鹿島神宮内の神武館に拠点を移し気勢を挙げ始めました。翌年の元治元年(1864)3月27日、天狗党と呼ばれる水戸藩尊王攘夷派が筑波山に挙兵しました。町奉行田丸稲之衛門を総師に担いだ藤田小四郎らは、常陸府中を根拠地として、潮来、小川、玉造、湊などの郷校に同志を集め、また軍資金の調達に努めました。こうした水戸藩領と郷校に挟まれていた麻生藩領では、血気盛んな活動家による資金強要などの事件も起こっていました。幕府の追討軍や諸藩と天狗党による戦闘が各地で起こるなか、天狗党本隊から分かれた少数派との戦いが麻生領でも行われたのでした。『記録大雑書二編』(高野家文書)には、元治元年9月7日に青沼原で戦闘があり、30余人が捕らえられ粗毛にて処刑されたが、逃げ延びた分派勢が五町田地区の湖上で村人たちに追討されています。この戦闘では、麻生藩足軽頭の吉田房五郎、大生村足軽世話方の大川理兵衛、高岡村猟師平右衛門らが戦死し、青沼村では11戸33棟が焼かれました(「焼失始末書上書」(久保田家文書))。
  また、麻生藩では、財政が逼迫し多くの改革に努めていましたが、そこに拍車をかけたのが、安政の大地震や麻生での二つの大火でした。
  安政2年(1855)10月2日の夜に発生した安政大地震では、江戸全域が壊滅状態となり、麻生藩の江戸上屋敷と浜町下屋敷がともに壊れました。麻生陣屋から普請奉行として代官永井彦太郎が職人たちを連れ江戸に登り普請に当っています。
  この年、麻生でも大災害を被っています。12月5日には古宿から出火した火は25軒を焼失させ、新川御蔵も類焼し、米200俵余りが燃え上がっています。
  また、翌年の安政3年正月19日には、海了寺で藩主新庄直彪御生母のご逝去による法要を執り行なっている最中、御用人神田氏宅より出火し、三好家、津久井家などに延焼し、陣屋の付属施設の裏御門や御馬屋にも飛火し、終には陣屋御殿にまで延焼し、反対側の堤家や畑家など一帯も焼失してしまいました。陣屋は安政5年に再建され、現在残る麻生藩家老屋敷も安政4年に建て替えられた畑家の居宅です。この畑家住宅は役所機能も有し、武家屋敷としては県内でも数少ない貴重な文化財となっています。

いばらき市民活力センター
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