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生きた学芸活動の展開 霞ヶ浦常民交流博物館
|麻生藩新庄氏外様小藩のすがた|新撰組水戸派へようこそ奈良大学で学んで行方を探ろう
麻生藩新庄氏外様小藩のすがた −高瀬船で往く参勤交代−
 
 
  江戸時代、全国の大名は幕府から参勤交代を課されており、地域の幹線道路から五街道などを経て江戸参府をしていました。
  しかし、歴代の麻生藩主は、江戸往来には御座舟を用いて国屋敷のある麻生新川河岸から、利根川中流の下総国竹袋村の木下河岸(印西市)との間を川船で往来していたのでした。寛永8年(1631)秋には木下河岸から行徳河岸(市川市)に至る街道、いわゆる木下街道の整備が行われ、行徳・八幡・鎌ヶ谷・白井・大森・行徳の各宿が整えられています。木下はこうした利根川改修や木下街道の整備による水路・陸路に通じる交通の要所となるなかで、河岸場として発達して行きました。
  『麻生日記書抜』(三好家文書)の元禄9年(1696)5月23日の記録には、藩主の江戸参府にあたり、御座船として五大力船を板久村(元禄年間より潮来と表記する)で借り上げそこから乗船しています。当時、麻生藩では藩主専用の船を所有しておらず、江戸参府の都度川船を借り上げていたことがわかります。
  大名が参勤交代に用いる経路については、幕府の厳重な管理下にあったため、麻生藩でも幕府の許可を得て川船による江戸往来をしていたものと考えられます。
  その後、麻生藩では正徳2年(1712)に藩主御召船を建造しています。造船には江戸の船大工棟梁八郎右衛門と領内の船大工があたり、進水式には指揮に当った藩士平野与次右衛門に紋付袴が下賜され、船頭に任じられた平兵衛にも銭500文が下付されています。藩主直時(なおとき)はこの新造船で遊覧を楽しんだり、夜船で花火に興じたりしています。これ以降は藩主の参府ばかりでなく重臣が江戸と往来する際には、この御召船で麻生と木下河岸間を往復できるようになりました。
  木下河岸にある河岸問屋であった吉岡家の文書には、新庄氏が参勤交代の際にお世話になったお礼として茶碗を寄贈した記録が残っています。
  また、仙台藩では潮来に物資輸送の拠点である仙台河岸を置いていましたが、第7代藩主伊達重村が残した紀行文『鹿島道の記』には、安永9年(1780)の参勤交代の帰路に鹿島詣でをしています。このとき、江戸屋敷から水戸街道を下り千住、松戸、我孫子を経て木下河岸で宿泊し、高瀬舟40艘に分乗し利根川を下り、潮来に宿を取り翌日鹿島神宮に参詣し帰城しています。この紀行文については、赤松宗旦の『利根川図志』にそっくり転記されています。


いばらき市民活力センター
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