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生きた学芸活動の展開 霞ヶ浦常民交流博物館
|麻生藩新庄氏外様小藩のすがた|新撰組水戸派へようこそ奈良大学で学んで行方を探ろう
麻生藩新庄氏外様小藩のすがた −藩校精義館の人材育成−
 
 
  麻生藩の教育振興に努めた最初の藩主は、藩を再興した4代藩主直時(なおとき)でした。直時は儒学を重んじ津久井俊庸(伊兵衛)を儒役者として江戸藩邸において教授にあたらせるともに兵学についても講義させています。その子7代藩主直詮(なおのり)は俊庸を麻生に遣わし、郡宰(郡奉行)そして参政(用人)にまで登用し、私邸では藩士の教育に当たらせました。その子俊正も父の跡を継ぎ私邸で教授にあたり、8代藩主直隆(なおたか)の代には老職(家老)にまで取り立てられました。
  『麻生日記書抜』の文化元年(1804)5月の記事には、11代藩主直計(なおかず)が若い藩主に向け文武奨励を説く記述があります。
  幕末期には対外的警固などの必要性から、藩主や藩士の武芸に対する意識も高まり、個人に任せていた学問修業から麻生藩としての教育制度を確立していく動きが見られるようになります。
 嘉永元年(1848)4月に、吉田義輔(蘇寮)に対し、江戸藩邸で儒役者として儒学を講じさせ、私宅には稽古場(学問所)を貸与し教育の充実にあたらせました。その高弟伴鉄蔵(俊昭)にも麻生で家中の子弟の教育係を命じ、更なる修業をさせて9月には家臣に毎月4日、14日、24日の月3度の学習会開催を命じさせました。これが麻生藩の月並講釈と呼ばれる制度の始まりとなりました。翌10月には早速稽古場(剣槍柔教場)を会場に月並講釈が実施されています。
    麻生藩では、五常=仁・義・礼・知・信の道を根本として、物事の道理をわきまえ言行を真に慎むことを大切にしました。家臣として学問をすることが万事の基本になるものとして儒学精神を藩士教育の土台に据えていたのでした。
  この精神は代々藩主に引き継がれ、15代藩主直敬(なおたか)は廃藩直前となる明治2年(1869)に麻生陣屋内に地坪300坪、建坪50坪の藩校精義館(せいぎかん)を建設させました。同年11月の吉日を選んで授業を開始しました。職員は、総長1名、教頭1名、督学1名のほか、助教、小助教、得業生、給仕などおよそ10名が配属され、生徒数も70名を超えていました。しかし、明治4年7月の廃藩により精義館も短い役割を終えたのでした。
  精義館の教育理念は、8月に定められた学則により知ることができます。神皇の道と四書五経など儒教の道の両方を学ぶことが「精義」すなわち優れや道理を得ることになるというものでした。忠孝の節を知り歴史を学ぶことを学問の内容としながら、学問を実用のものとして職務と一致させることを理念としました。
  精義館運営に当たっては、6月に規則を設け、欠席を厳しく戒め無断欠席については大人子供問わず厳しい条件を課しています。教師へのあいさつも定められ出入りの教官に対しては敬礼や一礼が義務付けられています。そのほか賞罰制度を設け学習意欲を喚起していました。
  麻生藩では、4代藩主直時からの教育重視を引き継ぎ、財政難の幕末期においてもこのように藩校を設置し有能な家臣たちの育成に努めたのでした。しかし、明治4年7月の廃藩により精義館もあまりにも短いその役割を終えたのでした。

いばらき市民活力センター
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