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生きた学芸活動の展開 霞ヶ浦常民交流博物館
|麻生藩新庄氏外様小藩のすがた|新撰組水戸派へようこそ奈良大学で学んで行方を探ろう
麻生藩新庄氏外様小藩のすがた −藩の管理運営と領内経営−
 
 
 外様藩として関東に転封となった新庄氏は、藩運営に当たる人材を確保するにも苦労したものと考えられます。3代藩主直好(なおよし)時代である寛文年中頃の3万石時代の家臣団(「分限帳」(須田家文書))を概観すると、総人数164名の小規模家臣団のすがたが見られます。特に家禄の大きい重臣には、新庄一族の名が連ねられており、続いて畠(畑)氏、神田氏、三好氏などの麻生藩を支えた一族の名が登場しています。その他、摂津高槻時代の旧家臣や行方郡内の旧城館主一族なども取り立てています。また、この人数は、慶安2年(1649)に幕府が軍役の基準を示した「幕府軍役人数積」と比較すると極めて少なく、手代・中間・足軽などの下級家臣層が含まれない数字であったと思われます。
  新庄氏が、藩経営の拠点としたのはまとまった領地があった麻生地方でした。古くから要衝の地として城が構えられた環境にあり、祖先の居所である琵琶湖の東岸で、近江国坂田郡新庄や朝妻の地に類似した環境であり、水運の利便性もよく江戸との往来が容易であったことも大きな要因であったと推定されます。
  麻生陣屋の構築は、領地拝領の15年後の「武家諸法度」で城郭構築を厳禁された4年後の元和5年(1619)でした。堀の内には陣屋を囲んで重臣たちの屋敷が廻り、周辺には商いをする者や職人たちが軒を並べ、城下川の河口の霞ヶ浦の岸辺には新川河岸が設けられ、物資輸送や人々の往来の拠点として栄えました。しかし、近世城下町的な大きな町場の形成には至らなかったようです。元禄3年(1690)年頃の全国の諸大名の動静を記述したとされる『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』には、麻生藩が成立して約90年を経過していますが、麻生在住の家臣は極めて少なく江戸詰めの家臣たちが多かったことを伺うことができます。
  藩の職制では、家老、用人、勝手役(会計役)、物頭(銃隊長)、徒士頭、取次(公用人)、目付(監察)、代官役(税官)、吟味役(用度司)、作事役(営繕司)などが置かれていました。また、中世末期の地元の小城館主を郷士に取り立てて領内経営の役割の一端を担わせています。
  一万石の麻生藩領の村の家数と人口は、天保9年(1838)には、1,389軒で6,042人を数えています。その後入植政策後の嘉永4年(1851)に1,474軒で6,967人、明治2年には1,723軒で9,092人へと推移しています。
  領内の経営は、家老の下で郡奉行と山奉行が代官や山代官などの部下とともに担っていました。1万石時代の領内24ヶ村は上郷と下郷に2区分され、両郷には村々の名主を統括し陣屋からの触書を通達する役も担う割元名主(わりもとなぬし)が置かれていました。また、藩有林管理のために上郷と下郷に各々一人の山横目(やまよこめ)も置かれていました。
  麻生藩では、寛永8年(1631)に全領検地を行った後は、新開検地帳しか確認されていないことから新開検地のみの実施と考えられます。

いばらき市民活力センター
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